大会の特徴

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大会の特徴

勝ち負けにこだわらず楽しく走りきる!

参加者は、「お侍の仮装」を施しての参加が認められています。近年では侍姿に限らず、思い思いの仮装での参加者が大会に華を添えています。まさに当マラソン大会ならではのミドコロの一つになっています。ただし、仮装しているからといって侮るなかれ!意外と俊足ランナーが多いのである。仮装される方はあらかじめ仮装タイトルを決めてご参加ください。

大会当日はコース上で、審査委員が審査をし「仮装アイデア賞」を贈呈しています。

安政遠足の由来

安中藩主、板倉勝明侯は、安政2年(1855年)藩士の心身鍛練の目的をもって、安中城内より中山道を西に碓氷峠の熊野権現まで7里余りを徒競争させ、その着順を記録させた。これを 『安政遠足』 という。その記録である 「安中御城内御諸士御遠足着帳」 と墨書された横長帳の古文書が昭和30年、碓氷峠の茶屋 (あづまや曽根家) から発見された。「日本最古のマラソン」 として藩主の偉業を後世に伝えるため、安政遠足保存会を組織し復活したものである。記録には、走った96人の藩士の氏名・着時刻・着順などが克明に記されており、記録を競う遠足はこれが初めてであった。

遠足(とおあし)
文武の奨励と相まって、藩士の心身鍛錬のため長い距離を走らせた、これを遠足 (とおあし)といった。錬成の結果は、榛名神社まで片道五里(約20㎞)を1日二往復(約80㎞)走破し、鍛錬する藩士も出たと伝えられている。
安政遠足(あんせいとおあし)
安中藩主板倉勝明(いたくらかつあきら)侯の父、勝尚(かつなお)の時代、即ち文化5年(西暦1808年)3月、藩士の子弟教育のために安中城内に造士館(ぞうしかん)を設立し学問を奨励し、併せて武道をも大いに奨励した。安政2年(西暦1855年)勝明侯は、領内五料村(ごりょうむら)(安中市松井田町五料)に安中郷(ごう)学校(桃渓書院)(とうけいしょいん)を設立し、領民にも学問を奨励した。藩主板倉勝明侯は、安政2年5月19日より50歳以下の藩士96名を、5月から6月にかけて16回に分け、安中城門から中山道碓氷峠の頂上にある熊野権現(くまのごんげん)まで七里余(29.17キロ)を徒歩競走させた。
熊野権現の上州側の神官であり社家町の組頭をつとめる曽根出羽(そねでわ)は、安中藩代官久保庭谷五郎より呼び出しがあった。5月18日朝暗いうちに峠の家を出て安中に至り、遠足の審判員としての打合せを済ませた。割附札50枚を受け取って帰る途中、日も暮れて雨による悪路の事もあって坂本宿(さかもとじゅく)に泊まり、翌朝峠の難所刎石(はねいし)まで登った所でもう遠足の侍選手7人に追いつかれてしまった。審判が遅れて行ったのでは大変と一緒に競走して行った事が伺える。
そして熊野の神霊に報告して御神酒を捧げ最初の選手である7人には酒肴と茶・力餅等を振る舞ったことが記録されている。19日出発の一番手から、28日到着の最終走者まで着時刻、着順、氏名が詳しく記されている。しかし雨降りのハプニングのため、刎石山で追い付かれた最初の7人の選手については順位の記録はない。このように参着した遠足の侍たちは、それぞれ熊野の神前に御初穂を供え、神官からは力餅や大根の切り干しきゅうりもみ等が出され、接待されたことが記録されている。
残念なことに安政の遠足の所要時間の記録が記されていないので、現在と比較することはできないが組織的に、しかも記録を競う遠足はこれが初めてであった。これは日本におけるマラソンのはじまりである。

遠足に係わる歴史

安中市松井田町は、古くからの交通の要衝として、その任を負ってきた町であり、今でもそのおもかげを残しています。

五料の茶屋本陣:お西・お東(群馬県指定史跡)
江戸時代に、参勤交代などで通行する諸大名や公家などが休息したところです。宿ごとにある本陣のような宿泊用のためではなく、休息や昼食、あるいは他の大通行が関所にかかっている間の時間待ちなどに利用されました。お西は明治11年(1878年)9月に明治天皇北陸・東海御巡幸の祈りに「御小休所」として使われました。「お西・お東」両家が並んで現存するところは全国でも数少なく貴重な文化遺産です。
碓氷関所跡(群馬県指定史跡)
箱根の関所と並ぶ二大関所の一つといわれ、江戸時代(1623年)に「入鉄砲と出女」を取り締まるために設けられました。碓氷峠のふもとの地形をうまく利用して、徳川幕府維持のために役立てられたものです。明治2年(1869年)廃止されましたが、昭和34年往時の柱、門扉、土台石などを使って当時の番所跡に復元され石垣、東門、おじぎ石などにおもかげを残しています。関所は、街道を仕切って関門が設けられ、その間が52間2尺(94メートル)だったと言われています。また、付近には100年を越す碓氷峠の鉄道文化と歴史を実際に体験し楽しめる、鉄道テーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」があり、鉄道愛好者はもとより沢山の来場者で賑わっています。
熊野神社
碓氷峠の頂上、群馬県(安中市松井田町)と長野県(軽井沢町)の県境上に鎮座しています。本宮の中央が県境で、右側が群馬県で新宮があり、左側が長野県で那智宮があります。県境にまたがる神社は全国でも珍しく、それだけでも貴重なものです。境内には安政3年大砲鋳造のため犠牲になる寸前に残された「熊野神社の古鐘」(群馬県指定重要文化財)のほか、文和の塔、石の風車、吊灯篭、懸仏、石碑等多くの文化財があります。また、毎年若葉まつり(5月)、紅葉まつり(10月)が行われます。安政遠足峠コースのゴールは、この県境です。
安中市のみどころ

旧安中藩武家長屋(ANNAKAHAN NAGAYA)

郡奉行役宅と道を挟んで武家屋敷が復元されています。茅葺きの長屋が並んだ敷地内には井戸も掘られ、往時の暮らしぶりを偲ぶことができます。

原市杉並木(SUGINAMIKI)

旅人の涼のため、中山道には約1kmにわたり杉が植えられていました。現在も樹齢300年とも400年とも言われる杉が堂々とそびえ、当時の中山道の面影を伝えています。

五料茶屋本陣(GORYO CHAYAHONJIN)

五料の代々名主を務めた旧家・中島家で、諸大名や公家の休息所となっていました。「お西」と「お東」と呼ばれる二つの切妻造りの建物が隣り合っています。いずれも県史跡に指定され、往時のままに復元されて一般公開されています。

碓氷関所跡(USUI SEKISYO)

1616年に徳川幕府により設置され、明治2年に廃関されるまで、関東入国の関門として「入鉄砲と出女」を監視しました。復元された関所跡には関所資料館も建てられ当事の資料が展示されています。安政遠足が行われる日には碓氷関所まつりが開催されます。

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